“希霜”天外?

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第2章へ入る前に<4>

第4部 原点を定義する思考
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まず、過去記事(http://lightfully.exblog.jp/14866545/)に書いたような
心理面での生と死の境目を見るに到ったのは、究極的な自己否定からでした。
「欲が無い」と言われると前述しましたが、実際のところ、これまでの30年近い時間を振り返ると
欲の無い状態→欲の多い状態→欲の無い状態→欲の多い状態・・・と変化してきました。
こう書くとループしているように見えますが、1巡目と2巡目は本質的にまったく違います。

2巡目については後ほどじっくりと説明することにして、まず1巡目は、自己否定の塊でした。
最初は自分に価値が無いと思うがゆえ、何も手に入れてはいけないと信じていました。
欲が無いというよりは、欲を抑圧していたのかもしれません。
それは自分を守る手段のひとつであったかもしれませんが、決して持続可能な選択肢ではありませんでした。
何もしなければしないで何の進展もできず、そんな自分が更に嫌になる…という悪循環でした。
悪循環の限界点まで来たところで、反動によって一転して何かを得ようと必死になりました。
成功欲とでもいうんでしょうか…今度は反対側の限界まで自分を追い込みました。
しかし、いくら頑張っても自分の存在の小ささを思い知るばかりで、自己否定感は一向に改善せず、
ついには限界を超えるところまで追い込んでしまいました。

それまでのネガティブな自己評価に加えて自分に対する無力感、自信喪失、嫌悪、罵倒・・・
自己否定から来る誰にも頼りたくないという思いと、仮に頼ろうと思っても頼れない多忙な環境も手伝って、
いつしか重度のうつ状態へと陥り、そのとき、かつて経験したことのない恐怖と絶望に取り囲まれました。
動く気力は尽き果て、食べることには罪の意識があり、何もしていないときは自分を叱咤する・・・。
眠っているあいだが、唯一苦しみから解放される時間でした。

過去記事に書いた、

>それぞれの悩みから生じる“苦しみの総和”としてではなく、
>もはや生きること・生きていること自体が恐怖の塊だった。

>生きていることが、死ぬことと同等に、あるいはそれ以上に怖い…

というくだりは、この状況を表面的に示したものでした。
この頃、死んだらどうなるのかということを真剣に考えました。
そしてある時、不思議な夢を見ました。
強烈なインパクトがあり、いまだに忘れることができません。

以下、夢の話です。

・・・真っ暗な空間に、自分だけが存在していました。
そして、左手の親指の部分に耐え難い痛みを感じていました。
この痛みをどうにかして取り除こうとするのですが、どうにもなりません。
いくら頑張っても、どうもがいても何も改善せず、逆に体がどんどん消滅していきます。
徐々に徐々に、自分の体が足の先から消えていくのです。
経験したことのない種類の恐怖を感じ、その状況から必死に逃れようとしました。
しかし周りには誰もおらず、何も存在せず、助かるきっかけすらありません。
消えゆく自分だけが、まったく光の無い世界に存在しているのです。
光が無いのに自分の姿は見えました。
視覚で見ているのではなく直感的に把握していたような感覚でした。
時間が経つにつれ、痛んでいる左手を中心として、外周から自分の姿がなくなっていきます。
もはや為す術はないのだろうか…と苦しい気持ちになりました。
ただただ成り行きを見守っているうちに、足がなくなり、腹がなくなり、ついには頭もなくなります。
そこまで来たとき、一種の諦めの境地に達し、観念しました。
もう逃れられないのだ、助かることはないのだ…仕方ない、と。
そのとき、意識は一転しました。

早く消滅して、この痛みから解放されたい・・・。

消滅に抵抗する気持ちはなくなり、逆に消滅を願うようになったのです。
そのままじっと待っていると、とうとう痛む左手だけとなり、更に親指だけとなり
ついには痛みの根源までもが消えてゆき、徐々に痛みが薄らいでいきました。
ここまで来たときに、それまでの苦しみが嘘だったかのように、穏やかな安らぎに包まれました。
少しずつ少しずつ、すべてが薄れていきました。
無の境地とは、こういうことなのかもしれません。
本当の無に限りなく近づいて、やっと解き放たれたとホッとしたその瞬間に目が覚めました。

夢の話はこれで終わりですが、
現実の世界に存在している自分を確認して、なんだ生きてるのか…と無気力に思いました。
ふと左手に意識をやると、なんてことはなく、
ただ単に人差し指の爪を親指に強く押し付けていただけなのでした。(大苦笑)
精神的に強いストレスがかかっているときは体が異常に緊張して無意識のうちに力が入るため、
寝ている間にもこういうことはよくあるのです。
それがこのような夢に繋がるかどうかは、また別問題ですが…。

なんともつまらない原因から見た夢でしたが、これは死の過程に極めて近いんじゃないかと感じました。
ああ・・・死ぬとは、こういうことなんだ・・・と。
(のちに読んだ本の内容と照らし合わせても、あながち間違いではなかったようです・・・)
死が怖い理由のひとつに、
人が死ぬとき、身体的/精神的にどういう過程をたどるのかが分からない、というのがあると思いますが、
そのシミュレーションのようなものを体験したことで、それ以来、死への恐怖が少し軽減されました。

一方で、生きていること自体の恐怖が時間とともにどんどん重くなり、
夢を見てからしばらく経ったある日、ついに大小関係が逆転し、生きる意思の壁を突き破りました。
すると、その瞬間、不思議なことに解放感と開放感に満たされました。
それまで潰されそうなほどに覆いかぶさっていた暗い重圧が消失し、久々に心に余裕ができたのです。
これはまさに、上記の夢で見た内面的なプロセス(恐怖からの解放)を辿っていました。
ただ、夢とは視覚的状況が決定的に違い、とてつもなく明るい空間に自分が存在しているように思えました。
物理的には普通の室内の明るさで、むしろカーテンが閉まっていて若干暗いぐらいでしたが、
感覚的にはそう感じたということです。

夢の中で、光がないのに自分の姿を把握できたのと同じように、
現実とは違う空間が広がっているのが直感的に見えました。
自分自身は現実の世界にも存在して、直感的な世界にも存在する…という量子論的な状態でした。
直感的な世界は、光が満ちあふれていて、遮るものが一切なくどこまでも広がっていて、
何物の引力も感じず、究極的に自由な空間でした。

念のため繰り返しますが、そのような場所は、決してこの世界には実在しません。
具体的な言葉で表現するために無理やり形にするとなると、こう書かざるを得ないのです。
すんなりと理解するにはなかなか厳しい内容であることは承知しています。
こう書いても、当時の体験が100のうち2~3程度伝わっていたら上出来だと思います。

…ある程度話の流れを共有していただくために、上記体験が何を意味するのかという客観的な解釈を、
体験のエッセンスが(2~3%すらも)抜け落ちてしまいますが、説明文的に書いておきます。

死を決意したとき、今ある現実世界のしがらみは完全に無意味なものとなります。
これから死ぬという状況では、煩わしいしがらみも重苦しい責任も悩みの根源すらも、
もはや一切関係なくなります。
自分の外にある全てが、もう少ししたら無関係なものになってしまいます。
一部の恵まれたケースを除けば、最終的に意味のあるものは自らの精神のみなのです。
あらゆる環境を断ち切った状態、それが究極的な精神世界ということなのでしょう。

さて、外部環境と未来という時間が何の意味をも成さないその概念上の空間の中で、自問自答しました。
自己否定…つまりは自分というものの存在を本当の意味で認めずに、それまで生きてきたのです。
仮に周囲からは認められていても、自らの人生として見たときに一体何の意味があるのだろうか…。

「俺の人生は何だったんだ・・・」

認めない存在(=ゼロに等しいもの)を、どれだけ長い時間積み重ねてもゼロに変わりはありません。
本当の自分の意思を押し殺して生きてきた時間に、そして今までの苦労に、何の意味があったのでしょうか。
直感的な世界(精神世界)でこの無意味さに包まれた虚しさに辿り着いた一方、
同時に存在している現実世界では、非常にシンプルな2つの選択肢だけが認識されました。

1.何らかの手段で、このまま死へ進む。
2.常に自分を肯定して生きる。ただし、自らの定める道に背いてはならない。

自己否定を背負ったまま生きるという選択肢は、もはや存在しなかったのです。
・・・そして選択する時に、ごく当たり前のことに気づきました。
この先、生きている限りは、どの時間においても常にこの2択が存在するのだ…と。
言い換えると、いつでも死ぬことはできるのです。
死にゆくつもりになって、完全に外部環境が遮断されてすべてが自由になった今、何も苦しくない。
だったら、何も今急いで1を選ぶ理由は無い。
生きていて辛くなればまたこの2択に戻って来ればいい。ただそれだけのこと。
そんな消去法から2を選び、ありがたいことに今もこうして記事を書いている・・・というわけです。

いままで長々と書いてきたような流れを、頭の中で順を追って整理した上で
その上澄みを比喩的に簡潔にまとめたものが過去記事です。
 >恐怖の大小関係が逆転するときの、
 >それまで安定していた天秤の皿がふわりと浮き上がるような感覚…。
 (中略)
 >天秤の針は、音もなく“こちら側”と“その向こう”をゆらゆらと往復した。
 >幸いにも、小さなホコリが“こちら側”の皿に落ちて重量バランスが崩れ、
 >天秤は元の位置に戻された・・・
このあたりの表現も、なんとなく感覚的に理解していただけるのではないかと思います。
 
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別館 『希霜さんの大ボケ研究室』
HP 『光と色の協奏曲』
 
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by lightful | 2011-02-02 02:12 | 希霜的写真論

日常をライトフルに綴る写真雑記 HP http://lightfulproject.jp/


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